多くの人とともに、社会につながる子どもに育てていく。「先天性親の会-わたしのこれまでとこれから」レポート

先天型筋強直性ジストロフィーの子どもを持つ親たちの交流会

2024年1月20日(土)、DM-family会員限定交流会「先天性親の会-わたしのこれまでとこれから」をオンラインで開催しました。

先天性(先天型)筋強直性ジストロフィーとは、生まれる前-お母さんの胎内にいるときから発症し、重篤な状態で生まれる子どもたちの病名です。

生まれたときには全身の筋力が弱く、呼吸やおっぱいを飲む力も不十分で、新生児集中治療室(NICU)で治療を受け・・・そんな状態の子どもに、親なら誰もがショックを受けます。

子どもたちのほとんどが知的障害を持ち、育児に大きな影を投げかけます。

しかし、障害があっても、子どもは育ちます。
それとともに、親たちも育っていきます。

筋強直性ジストロフィー患者会では、例年、会員限定で「先天性親の会」を開いており、今回は中学生になった13歳の息子さんを育てているTさんと、社会人になった21歳の息子さんのいるMさん、2人のお母さんたちの体験談を聴き、難しい病気とともに子育てをした経験から、つかんだことをお話しいただきました。

【ご注意】体験談で語られる子育ては、すべての先天性筋強直性ジストロフィーの子どもに当てはまることではありません。症状や自治体の対応が多様であることを前提としてお読みください。

子どもを授かる前・出産時のわたし

Tさん・Mさんとも、筋強直性ジストロフィーの患者です。

お二人とも出産をきっかけに、ご自分の病気が筋強直性ジストロフィーであることを知りました。

Tさんは、妊娠前にも口がうまく回らない、握力が弱いなどの症状がありましたが、「あまり深刻に考えていなかった」といいます。

Mさんは、看護師として三交代制の病棟勤務をこなし、休日は中型バイクで友人とツーリングに行くなど、健康でアクティブな生活をしていました。

Tさんは、不妊治療を受けて妊娠しました。
「31週までは順調だと思っていましたが、今振り返ると胎動がほとんどなかったです。33週で羊水過多と早産の可能性を指摘され、入院しましたが、その後は順調。しかし39週目に自宅で破水し、病院へ行った5~6時間後に自然分娩で出産しました。」

「息子が産まれた瞬間のことで思い出すのは、泣き声がしない、元気がない、顔色が悪いということ。抱くこともできず顔もまともに見られないまま別室で検査をし、結果は、この時点では尖足、高口蓋、新生児仮死があり、すぐに救急車でNICUのある病院に転院しました。」

Mさんは妊娠後、切迫流産で仕事を辞め、総合病院に入院しました。羊水穿刺などを行いながら破水、子どもの心拍低下で、緊急帝王切開で出産。新生児仮死の状態で国立の医療センターに救急搬送されましたが、子どもは4時間後に亡くなりました。
亡くなった子どもに会いたいと病院にお願いし「薄黄色のおくるみを着た娘に会いました。動かなかったけれど、娘に会えて、抱けることができて良かったと、心からそう思っています」と語っていました。

その後、自分自身も筋強直性ジストロフィー患者と診断されたMさんは、第2子出産時に出生前診断(絨毛遺伝子検査)を行いました。

「第2子にも遺伝していることがわかり、夫婦でギリギリまで話し合い出産を決めました。」

専門病院の周産期医療センター、遺伝子医療センターでのフォローも受け、計画的帝王切開で出産、息子さんは先天性筋強直性ジストロフィーで、NICUで医療処置をしばらく行って退院しました。

出産後、子どもをすぐに理学療法へ

Tさん、Mさんに共通していたのは、子どもたちが生後かなり早い時期から理学療法を受けていたことです。

Tさん談

「入院中に市の保健師とワーカーが来て療育センターにつないでもらいました。
生後3か月で初めてのPT(理学療法)でリハビリを受け、週1回通いました。これが軌道に乗り、その後OT(作業療法)で手先の動きの練習も加えました。」

*自治体によっては発達支援センター、療育園とも呼ばれています。

Mさん談

「(生後)息子は遺伝子医療センターに月1回の定期受診を1年間ほど続け、その都度、理学療法を受けていました。その後も年3回ほど定期受診は続き、現在は1年に1回程度です。出生時から全身の筋緊張低下のため、身体がふにゃふにゃした状態で、ハイハイやつたい歩きなど身体発達は、通常より6ヵ月~1年程遅れがありながらも獲得していきました。」

療育センター・保育園・幼稚園時代

子どもたちは、症状と住んでいる自治体の対応がそれぞれ違います。Tさん・Mさんは、どちらも「自分の子どもにとって何がいいか」を夫婦で真剣に話し合ってきた様子が伝わります。

Tさん談

「療育センターは未就学児のための通園施設でもあり、2歳から5歳まで通園を利用しました。母子通園で週1回から、成長とともに週2~3回にしていきました。」

「療育時間中は保護者も一緒に過ごし、ママ友ができて病気の違いを超えて話ができ、良かったです。療育センターでは少人数クラスで主に大人との交流ができ、手厚いフォローで安心感がありました。」

「その後、年長(5歳)だけ幼稚園に通園して週5日を過ごしました。
同年代の子供たちと触れ合う機会を増やしたいという思いから幼稚園を希望したのですが、障害児を受け入れてくれる園はあまりなく、あっても身辺自立ができていることが条件になることが多いようです。」

「息子が、理解ある幼稚園に巡り合えたことはありがたかったです。
通園していた幼稚園では約40年前から、軽度から重度までさまざまな障害児を受け入れており、『みんな違って、みんないい』をモットーとし、実践しています。受け入れの歴史が長いので、先生も保護者も児童も対応が慣れていました。」

「3歳半で一人歩きができるようになった息子は、幼稚園で同じ歳の子どもとふれあい、子どもたちの言葉のシャワーを浴びて育ちました。療育センターだと大人との会話になるので、貴重な体験だったと思います。
加配をつけてもらい、常に息子はサポートを受けていました。」

*加配:障害のある子ども・集団生活の際に困りごとを抱えている子どもに対し、サポートや援助ができるよう、通常の職員数に加えて先生を配置すること

Mさん談

「夫婦で共働きをしており、医師や臨床心理士と相談しながら1歳頃から無認可保育園に入園しました。入園に際し、医師から園長先生へ、息子の病状・注意点などを説明していただき、園の了承を得て、保育士の方々のご配慮いただきながら通園していました。」

専門の医師からの病状・注意点の説明は、この後もMさんの息子さんにとって大事な場面で都度、行われていきます。

小学生になって:特別支援級/普通級

Tさんの息子さんは地域の小学校の特別支援級に、Mさんの息子さんは小学校普通級に進学しました。

Tさん談

「自治体によって、全ての学校に支援級があるわけではなく、学区に複数の特別支援学校があって、選べるケースもあるようです。
わたしたちが住んでいる自治体の公立小中学校には必ず特別支援学級が設置されています。」

「先生と毎日の連絡帳で日々の生活の様子をやりとりし、学習は少人数クラスで個別対応してもらいました。」

「普通級の児童と一緒に参加する行事では事前のすり合わせが必要です。たとえば運動会では、走ったり物を早く運んだりすることができない中、どのような形で参加するか?我が家では全ての競技に参加する前提で考えてもらい、先生が付き添ったり、動きの種類を減らしたりして参加できました。」

Mさん談

「小学校入学に際し、医師や臨床心理士から、『IQが低いながらも小学校普通級で対応できるのではないか、途中で特別支援学級への変更も可能』と話があり、夫婦で相談して普通級への入学を決めました。入学前に、保護者から学校に小学校へ病状や注意点などの説明をしました。」

「入学半年で、夫の転勤のため転居し、息子も転校となりました。以前の小学校の先生方から少し心無い言葉を受けたため、教育委員会に相談しながら対応しました。転校先でも先生方へ病状や注意点などを説明し、ご理解いただきながら小学校生活を送りました。」

「語彙が少なく、文章を組み立てることがやや困難で、相手への説明が難しく、先生の意図とする質問に対し的外れな回答をするときもありましたが、先生が上手く対応してくれていました。その一方で、漢字や計算式の問題は難無く出来ていました。」

「そこで、学校での理解不足を補うため、少人数制の塾に通っていました。筋力低下はあるものの、特別に遅れをとるといったことはみられませんでした。」

「息子は体を動かすことが好きで、同級生とふざけ合ってかかわりをもとうとする様子が多かったように思います。」

「小学校5年生頃より友達とのトラブルが多くなりました。心配になり、担任の先生、スクールカウンセラー、児童センター、医師、臨床心理士へ相談するも、解決の糸口は見つかりませんでした。
私が仕事から帰ると、息子が涙目でソファーにうつ伏せており、泣きつかれるまで抱きしめてから話を聞くのだけれど、何があったのか話をしてはくれませんでした。同じことが2~3回あった後、学校から事情を聞くこととなりました。
息子が高校生くらいになってから、『小学生4年生くらいまでは楽しかったけど、5~6年生はつまらなかった』と当時、親には一切話さなかったことをこぼすことがありました。小学校5年生の時に特別支援学級へ変更しておけば、防げたこともあったかもしれないと思うのですが、何がベターだったのか今も分かりません。ただ、息子には申し訳ない気持ちです。」

中学生になって:自立を意識

Tさん、Mさんともに、知的障害のある子どもの自立を模索してきました。

Tさん談

「息子は、地域の中学校特別支援級に進学しました。生徒13名に対し先生とボランティア合わせて6名という体制です。習熟度別に2クラスあり、個別学習ではなくても手厚くみてもらっています。」

「学校には制服がありますが、息子はボタン、チャック、ネクタイ、ベルトができないため、マジックテープやゴムのズボン・ネクタイで対応しています。」

「毎日の連絡帳でのやりとりも続けましたが、小学校のときより親の関わりを減らすよう意識しています。

息子自身が、自分で意思を伝え、助けを求められるようになってほしい。

小学校のときは、翌日の準備は親がして、連絡帳でも先回りして細かく伝えていましたが、現在は少しずつ自分で準備をさせ、連絡事項も絞るようにしていました。」

「たとえば、学校に行く場合は、最初は教室まで一緒に行きました。そして、次は建物の入り口までで、一人で教室に行けることを確認し、次は校門まで、その次は道の途中まで・・・と、ゆっくり時間をかけて、一人でできることを増やしていくようにしています。」

Mさん談

「中学校へ入学に際し家族で話し合い、特別支援学級への通学を決めました。息子は当初、 嫌がっていましたが、徐々に受け入れて慣れていきました。」

「体育・音楽・学校行事は交流授業で、交流クラスで仲の良い友達もでき楽しんでいました。学校の先生より療育手帳について説明があり、区役所面接で療育手帳Cを取得しました。」

「3年生から放課後デイサービスを週1~2回利用し、日常生活の自立にむけ力をつけるようにしました。
特別支援学校の受験対策のため、小学校から続けていた塾を個別塾に変更しました。」

高校生から社会人に:心ない差別を受けても学び続け、就職へ

現在21歳の息子さんの経験をMさんからお話しいただきました。

Mさん談

「高校受験に合格し特別支援学校へ入学しました。この学校は3年後の卒業時に、一般企業の特例子会社への就職を目的とした学校でしたが、息子は就職に至ることは出来ませんでした。」

就職活動の実習前面接で高評価でも、企業に病名を伝えると断られる。
高校の入学願書には病名を伝えた上で入学となっているのに、就職では病名で断られるのはなぜなのか?

「専門医から、病状説明に加えて『障害者雇用での就職は可能』と高校側に話して頂きましたが、理解していただけた印象はありませんでした。」

「専門医からは、『息子さんが病気について知りたくなった時に病気の説明をした方が良い。就職して仕事に慣れてきた頃が良いのでは』と話があったため、それまで息子に病気の説明はしていませんでした。
そこで夫婦で話し合い、息子に病名を告げて病気を正しく理解し、企業へ自分の病名、症状、配慮いただきたい点などを、IQが低いなりに自分から伝えられなければ前へ進めないと考えました。」

「息子は高校卒業後、職業能力開発センターへ入学し、生活に慣れた頃に専門医から本人へ病気について少しずつ説明してもらいました。職業能力開発センターに作業療法士が月1回きており、その都度、手指のストレッチや発声練習の指導を受け、自宅でも行っていました。」

「コロナ禍の影響もあり就職が難しい中、職業能力開発センターの先生より東京都チャレンジ雇用を提案され家族で話し合い、チャレンジ雇用で都立高校の事務補助員として期限付きの就職をしました。1年半位経過し、障害者総合支援センターの担当者から求人の連絡があり、職場実習をしました。最終的に、第2希望の職場に就職が決まりました。実際はトライアル雇用のため、就職してから3ヵ月間は試用期間で、大きな問題がなければ本採用となる予定です。」

これからのわたし:親・きょうだいだけでなく、社会とつながるように

Tさん、Mさんともに、ご夫婦で先天型筋強直性ジストロフィーの子どもを真正面から受け止め、子どもたちにできることを増やしていった様子がわかります。

そしてお二人とも、ご自分の症状が少しずつ進んできていることも実感しています。

Tさん談

「つながりが大切。病気が違っても、障害を持つ親御さんたち、この患者会で同じ病気を持つ人たちとのつながりを大事にしていきたいと思います。」

「そして、頼れる人・頼れる場所を複数確保することも必要です。親・きょうだいだけでなく、デイサービス、日中一時支援、ショートステイ、移動支援などを知っておくことは重要です。」

Mさん談

「私の心配は、息子が将来、親亡き後に不自由なく幸せに暮らせるだろうかということです。障害を持つ子の親ならば誰でも思うことだと思います。
ならば、私が今まだ少しでも動けるうちに何か出来ることはないだろうか、息子に何が残せるだろうかと考えます。」

「私自身がもっと病気や、治療薬の開発状況、治験の現状を正しくタイムリーに理解し、患者登録も行い、治験や治療の開発に少しでも協力していき、息子にきちんと伝えていくことだと思っています。」

「私は間に合わないかもしれないけれど、少しでも息子の時代には治せる病気になるようにと思っています。そして、私自身この病気と上手くつきあい、出来るだけ家族で楽しい日々が長く過ごせるよう、自身のメンテナンスをしていこうと思っています。定期受診もそうですが、暖かくなったらロボットスーツHALを使ったリハビリも受けようと思います。」

「息子は去年成人式を迎え、現在21歳です。ようやく就職が決まり、仕事にも少しずつ慣れ、毎日元気に出勤しています。息子の笑顔がいつまでも続くように願うばかりです。」


今回は、先天型筋強直性ジストロフィーの子どもがいる会員だけでなく、成人型の親御さんや、これから子どもを考える会員も参加ができるようにしました。

この病気にかかわる人々は同じ悩みを持っています。どの会員も、お二人の「これまでとこれから」に共感し、勇気を持てる会になりました。

病気であっても勇気ある親子を受け入れる寛容な社会であるよう、わたしたちひとりひとりが考える時が来ています。

最後に、お話しには、お二人ともにご主人さまが寄り添い、サポートがあったことに感謝いたします。